“世界激変の時代”に会社が発展する方法

“世界激変の時代”に会社が発展する方法

中小企業家同友会 西ブロック合同例会

かけはしB面

元日本ケンタッキーフライドチキン社長
大河原毅氏が語る「企業発展の法則」

 日本の外食業界の大御所、元日本ケンタッキーフライドチキン社長(現ジェーシー・コムサCEO)である大河原毅氏が日本の外食産業の歴史と外食産業の未来を語ります。この先、日本経済はどうなっていくのか?中小企業が勝ち残ってゆくための経営術とは?
不況の荒波に立ち向かっている企業の皆様、必見です!!

【講演概要】

第一部
生い立ちと学生時代。/万博。そしてケンタッキー1号店との出会い。/
訪米中の学びと戦略的行動。/ケンタッキー4号店~代表取締役

第二部
世界の潮流(時代潮流の干満)/戦略的発想と経営/事業展開の本質
食と農の携わり/夢ある地域コミュニティの実現(新時代の経営術)

元日本ケンタッキーフライドチキン社長
大河原毅氏が語る「企業発展の法則」
~“世界激変の時代”に会社が発展する方法~

1.はじめに

 本日ここに立たせていただく理由を何度も自問自答しました。
 私はまだ自分の会社を興して、自分で経営をリスクを持って経営しはじめてから7,8年しか経っていません。ですから「経営者」としては皆様の方が先輩にあたるわけです。また、会社を大きくするという点では、サイゼリヤの正垣さんの方がはるかに先輩です。
 私はといえば、合弁会社のサラリーマンとして上場企業を1号店から起こし、18年間社長を
勤め、さらに58才になってからまた独立をしている。そういった中でマクドナルドの藤田さん、ダイエーの中内さん、ジャスコの岡田さんなどに数多くの薫陶をいただきました。また、外資系の会社ということで数多くの経験もしました。今もまだ、なぜ会社はつぶれるのかを、なぜ問題が起きるのか、なぜ今ある会社は強いのかを勉強中です。
 ですが、40年近くサラリーマンやってきた人間が、58になって社長の座をおり、仕事をまた興すという中でなにかがあれば吸収していただきたいと思います。人生の師匠であるカーネルサンダースも65才までに18,9の事業を興し全て失敗してきています。そして65才になってはじめてKFCに出会い人生の事業として取り組んだのです。
 「ものごとの最初の釘の差し方は大事」です。最初ちょっとしかまがっていなくても、やっていくうちに曲がっていく。

2.生い立ち。

 祖父は開港間近の横浜で生糸(その頃の主要な貿易アイテム)の仕事をしていました。丁稚奉公からはじめ、最後は原合名会社(代表、原 山渓:横浜 三渓園開設者)の総番頭になり財をなしました。
 根岸に大きな土地を手に入れ、敷地内にいくつもの家を持っていました。私も物心つくまでそこにおりました。兄弟全員、ひとりずつ女中さんがついているような生活でした。
 でしたがある日突然生活が変わりました(倒産した)。父母は離婚し、四重奏を呼んで演奏を行ったテニスコートも家屋敷も、御殿場の農場も、鵠沼の別荘もすべて人手に渡りました。
 私は小学生でした。子どもというのは、どうしようもないのでくやしいとも思いません。米屋から米を掛けで買い、豆腐やからオカラをもらい、港の漁師から小魚を分けてもらう。サバ缶を購入し、汁を犬に身を自分のおかずにというような生活です。

 つまり私のものごころついてからの最初の人生は、「現実をみるとたまらない。過去はよかった。」という暮らしです。その頃、時間ばかりあるので海をずっとみていて気がついたことがあります。「潮には満ち引きがある。上げ潮の時に岸にはすぐ戻れるが、引き潮のときに無理しても浜には戻れない」。世の中、人間の努力だとか何だとかいうけれど、運命とか時代の動きとかには抗しきれないものがある。そういったものは「読む」ことが大事でそのうちにいいことがあります。

3.大学~就職。

 大学は、いまでこそ有名になりましたが上智大学でした。その時は、私学では就職の受験だけでも大変で、受けさせてもらえない時代でもありました。どうにか受験だけでもできた会社も全滅です。大日本印刷は最終試験で終わり。博報堂もだめ。つまり社会への入り口でシャットアウトされたのです。
 5月にどうにか通産省の外郭団体。日本プラント協会に入社できました。そこでは、日本の国益を考え、通産省の方と三菱重工、日立製作などそうそうたる経営者が円卓会議を行っていました。その会議の場で「何がこの人を大物にしたか。何がこの人たちを社長にしたか」をよく考えていました。そこで気がついたのは「偉い社長さんたちは、私にものを頼むときありがとうという」ことです。常務さんたちは命令するばかりでした。「地位がそうしたのか」「そうだから地位がそうなったのか」はわかりません。ですが、今でも私はアルバイトさんのように一番若い、一番地位の低い人にはできるだけ丁寧に接しよう。と心がけています。これが財界、経済界の歴々で学んだこと。

4.転籍につぐ転籍

 日本プラント協会で先輩の結婚式の時、祝辞で「○○君は将来優秀な課長になるだろう」と述べられていました。事実もそうで、将来の給料も計算できました。「やばい、どうすんのか、後あと30年いてもこれじゃ車も買えない」。こういった閉鎖社会ではだめで答えは海外にあると感じていました。
 そんな中、万博を控え(就職試験で落ちた)大日本印刷が海外事業部で中途採用募集をしてましたので申込ました。面接官も覚えてはいましたが「英語だけはきちんと勉強していました」ということで入社。万博に向けて様々な会社が動き、大日本印刷もカナダ館の仕事をとりました。運転主兼雑用係でカナダのバンクーバーからケベックから車で縦断したのですが、その時毎日食べたのがマクドナルドとケンタッキーフライドチキンです。
 日本に戻ってしばらくした時、KFC代表の方とニューオータニで逢いました。彼は日本でKFCを展開したいと言いました。まだ時期尚早と返答し目黒のとんき(トンカツや)に連れて行き日本のファーストフードだと紹介しました。
 万博が終わり、フランクフルト駐在の辞令がおりました。時を同じくしてロイウェストンからもKFCへの誘いがありました。その時大日本印刷のある外国部長の給与明細をみたが「ちょっとこれでは人生大変かな」ということで、難しい一面もありましたが、KFCへ入ることになりました。

5.1号店店長から開店そして閉店。

 「本部のマーケティングに入れ」と言われましたがどうせなら店長。自分でKFCのやりかたを覚え、トンカツやが売れると言った手前、自分自身で日本なりのFCをつくってみたいと考えたのでした。
 1970/11/23が1号店の開店日でした。天下の三菱商事と大統領より知名度の高いカーネルサンダースですから間違いないと思い現地入りしてみたところ、ジャスコ郊外型店舗1号店の駐車場脇に10本の柱だけです。人も採用できていません。1号店に一番近い栄養短大で「外食産業の将来」と題して学生に向け「米国1000なら日本は最低でも100店。いっしょにやろう。」と声をかけました。一番ヤジを飛ばしていた学生が最初の面接でしたが、私がロイウェストンに言われたように彼に「君の目には光がある」と言い雇い入れました。未だに専務をやっています。
 どうにか人も建物もでき開店を迎えました。テープカットした瞬間、お客さんが店に押し寄せ・・・花だけ抜いて帰って行きました。ベルをならして「試食です」には集まってきて「美味しいね~」。でも「販売です」ですぅぅっといなくなる。
 1ヶ月。誰も来ない時間が多く。たまにくると。チョコレートありますかとか床屋ですかとか。1号店も2号店も3号店も同じ状況です。三菱商事も撤退をほぼ決めていました。名古屋1号店は最初にあけて、最初にシメタ店です。
 最初の契約の約束で、現地を見せてくれということで米国に行きました。その時にKFC本社は目の前でコングロマリットに転売されたのです。相手先が代わったので三菱商事はやめたかったがやめられない。私も困りました。手持ち300ドルくらいです。その中でKFCを本当のFCにしたピートハーマンにお世話になりました。2週間の訓練後、成功の本当の理由を彼に聞いたところ「if you take care the people , people take care you」。つまりこの仕事はノウハウやシステムでなく人である。人を大事にすれば、人がおまえを大事にするということでした。
 日本に戻ってすぐ、パートを呼んで「もうちょっとがまんしてくれ」と言い、神戸三ノ宮のトーアロードに自分たちで店を開店したのです。

6.1号店~1000店舗越えるまで。

 神戸三ノ宮のトーアロード店は、自分たちでペンキ塗り。店オクの4畳半に寝泊まり(本当は泊まってはだめな環境)。風呂屋に行こうとして不審人物として警察にお世話にもなりました。苦しかったのですが、やたら楽しかった時です。原点です。物事つくるとはこういうものだと知りました。そしてはじめて利益が出たのです。
 同じことをやれば。ということで東京の青山、田園調布、成城と進出していきました。繁華街の反対側で安い部分を狙ってです。どんなときでもあまりあせらず。「キャッシュ経営」「格好はつけない」ということです。
 上席マネジメントは本体(三菱商事)に戻っていく中で、上席がいなくなった分早く昇進していきました。取締約になる頃アメリカのKFCと三菱商事のどちらに在籍するか決めろと言うことでアメリカKFCを選択しました。その時の条件でハーバードに行かせてもらいました。日米を行ったり来たりしながらでした。ですが小さいとき貧乏だったせいか変化は平気だったのです。(途中、カーネルサンダースから直々に揚げ方を教わりました。同じモノを同じように同じ手順で同じマニュアルでやるのにまったく違う味になったのは今でも覚えています。)
 物事というのは、「ツボにはまると」すごい勢いで伸びます。この利益をどうしようかと思うぐらいです。社長になったあと18年間増収増益でしたが、疑問が出てきました。KFC本体がカーネルからコングロマリットへ。利益重視で質の変化が起こりました。ミルクとタマゴ、そしてシーズンスパイスへ2段階の手間を一段階に。もともとは、綿実油とコーン油だったのをパーム油に。
 ですが「テンプラ文化の国だからだめだ」ということでつっぱねました。ついに日本だけがカーネルのやり方を守り続け。そして日本だけが、フライドチキンでは独占状態を続けています。KFCは手作りでないと味が出ません。今の日本KFC社長も3代目ですがそれを守っています。

7.実験農場の設立(遠い記憶に似せて)

 利益がどんどん出てきたとき、北海道の八雲に記念事業として実験農場を設立しました。ひよこを飼い、ウェルッシュコーギーを牧羊犬ならぬ牧鶏犬を育てました。
 ある日、飼っていた鶏が全部消えました。犬もうろうろ。よくみたら、ひよこたちはハーブ畑にいたのです。そこから研究が始まりました。鶏はDNAの中に良いモノを摂取するようにできています。ある3種のハーブは食べ、その時の鶏糞はまったく臭いもないのです。何かあるということで研究し特許取得-公開したのがハーブ鶏です。
 北海道の八雲に実験農場を作ったのは、牧畜農家の低迷を救おうと思った想いや、ケンタッキー州でみた見事な農園を再現したいという想い、そして、かすかな子どもの頃みた大きな農場と柵、牛の足・・・そんな想いがありました。
 ハーブ鳥。ピザ。野菜。ハーベスタ。 手を広げて、右から左まで一切なにも作らせないように条例を設定してもらい、木と牧草と海だけの情景です。60万坪あまりが手つかずの自然で、海からの白樺並木は別天地です。看板も電信柱もなしです。土着した社員もいますし、オーナー農家の3代目で農場主(ダウンヒルチャンピオン)もいます。
 アグリルネッサンスは、文化的だけでなく、経済的にも成功させなければだめだと考えています。

8.新たな展開

 ある人から十勝の小豆が輸入物の進出で7割だめになったと聞きました。ちょうどファンシーフーズ(三菱商事)鯛焼き屋の話が合った頃です。この鯛焼きやさんはパートさんがやっていたんですが、生業としてやりたいということで少しずつ権利を購入しているとのことです。
 2度現地を訪れましたが、地元の高校生が困っているときにバイト代が入るまでと待ったり、近所の祖父母が孫の手を引いてきたりと本当の意味で地域に根付いていました。
 夢ある街のたいやき屋さん・おめで鯛焼き本舗・ゑびす黄金鯛焼き本舗では、モスバーガーに似たお好み鯛焼き、ミスタードーナッツならぬクリーム鯛焼き、十勝あんこ100%で店舗仕込みのあんを使った鯛焼きの3種類で展開しています。品数を広げると集中度と品質が下がります。ですから三種類です。
 女性の独立を助ける形で展開できないか。街中のコミュニティから日本を大事にできないか。本物の農業を守れないかなど今までの集大成的発想で展開しています。

9.まとめに

 潮の満ち引きを見ていた子ども時代。多くの有名な経営者と接して来た時代。いろんな方がいました。ある方は失敗してある方は成功している。自分も苦労したが楽しかったしそれなりに結果を出してきました。そんな中である考え方に行き着きました。色々な人たちはそうなった転機・ポイントがあったはずです。それをテーマとして勉強している最中です。
 私は事業者としては後輩ですので、勉強中です。1つ幸せなのは。最初に雇用した、一緒に人生を歩み始めた人が未だに一緒にいることです。そして何かを始めようとしたときに「そういえば、わー、こういう人がいる」と気がつくことです。人生で一番幸せな瞬間です。
 人生で感謝していることは二つ。小さい頃に倒産を経験したこと。そして中学で落第したことです。どんな形でも人間は生きていけます。大富豪もみていますが彼らは幸せかというと決してそうでもありません。
 人間の成功とか幸せとはなにか?自分にとってなにが成功とか幸せなのかを考えてみてください。
 私にとっては苦労は不幸ではありません。仲間がいます。そしていっしょに成功したときその喜びが幸せになります。

 どん底でもあるものはあります。ただで誰でも持てるものです。それは夢とビジョンです。夢はタダだからいくらでも描けます。それに空中でもいいからはしごをかけるとビジョンになります。私は未だにやりたいことや、夢もいっぱいあります。カーネルも65才からです。

 日本はいい国です。いいところがたくさんあります。でも世界の情勢をみてどこが満ちて、どこが引いているのかも見ないと努力がムダになる可能性があるのでそこは気をつけて下さい。
 また3年後、5年後、私も気分はまだまだ青年ですからお会いする機会が有ればこの続きを、どうなったかをお話ししたいと思います。ありがとうございました。

株式会社ジェーシー・コムサ 代表取締役CEO 大河原毅氏

大河原毅氏写真

大河原毅氏写真


1943年神奈川県生まれ。上智大学経済学部卒。
1970年日本ケンタッキー・フライド・チキン㈱の設立メンバーとして同社入社、直営第1号店の店長を勤める。
1971年取締役営業部長、‘78年副社長、‘84年社長に就任。
以後18年間KFCJのマネジメントを統括し、業界オンリーワンの地位の確立に尽力する。
(社)日本フードサービス協会会長、三菱商事㈱顧問、KFCJ特別顧問などを歴任。
‘02年㈱コムサネット代表取締役。
‘07年㈱ジェーシー・コムサ代表取締役CEO就任。

【ジェーシー・コムサ 会社概要】

ピザ(業務用、市販用、冷凍、チルド)等を中心とした食品製造部門と外食産業部門(一番どり他)をあわせもつ総合食品カンパニー。社員216名・パートナー498名・グループ合計1250名。売上高 161億円。※本講演会はFC加盟等の説明会ではございません。御了承下さい。

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2010年02月24日 “世界激変の時代”に会社が発展する方法 はコメントを受け付けていません。 | トラックバックURL |

カテゴリ: 船橋支部例会

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